奪われる11

ゆうくん
2005年01月04日
3,058
二人は再びソファで向かい合った。
「まあ、確かに高いかもしれませんが、でも菱川家の方なら大丈夫でしょう?」
「‥‥‥‥」
美奈子は絶望の吐息をつく。実は美奈子夫婦には金がなかった。
美奈子本人は、短大を卒業してすぐに雄二と結婚したので、そもそも貯蓄というものがなかった。雄二も、いくら資産家の子息とはいえ、母親の敏恵との確執で実家との交流が断たれた今は、一介のサラリーマンに過ぎない。
そのうえ、雄二が結婚前に溜めた貯金も、この家をあちこち手直ししたので、大半は消えてしまっている。
今の美奈子には九十万円もの現金を用意できるはずもなかった。
「あ、あのぅ、印東さん、実はお願いが‥‥」
安西はすがるような瞳の美奈子をにこやかに見る。
「なんでしょう」
「お金のほう、できれば少し‥‥待っていただけませんか‥‥。分割払いか何かで‥‥」
「奥さん、勘弁してくださいよ。商売道具なんですよ。なければこっちの仕事に差し障りが出るじゃないですか。壊れたのならすぐ新しく買い直さないと、仕事になりませんよ」
「で、でも‥‥」
安西は苦痛に満ちた美奈子の表情に嗜虐的な悦楽をわずかに感じながら、さらに揺さぶりをかけてきた。
「わかりました。奥さんが弁償できないのなら、結構ですよ。――菱川家の御本家に行って弁償してもらってきます。御本家の奥様ならすぐ払っていただけるでしょう」
「そ、それは困ります!お願いです!やめてください!」
ただでさえ蒼白な顔色がさらに青くなった。気絶するのではないかと思えるほどだ。よほど敏恵のことを恐れているらしい。
「うーん、困りましたね‥‥」
ソファで足を組み、ふんぞり返るような姿勢になって安西が天井を仰いだ。
しばらくその姿勢で静止していたが、不意に「あっ!」と叫んで再び美奈子の前に身体を向ける。そして、今思いついたばかりというふうに装って、提案を始めた。
「奥さん、うまいことを思いつきましたよ。この方法なら奥さんはお金を払わずに済みますよ」
美奈子の相貌がぱっと明るくなる。
「どうすれば‥‥」
「実は私は長年風景写真しか撮ってこなかったんですが、先日、懇意にしているある写真誌の編集長から『たまには人物を撮ってみないか』と声をかけられましてね」
安西はたばこを取り出し火を点けた。煙を吐きながら思わせぶりに話を続ける。
「編集長は『写真のテーマは“肉体の神秘――究極の美”だ。モデルもこっちで用意してやる。だから撮ってみろ』と言うんです。で、私も最近、新境地を開拓したいと思っていたんで引き受けたんですよ。ただ、一つだけ問題があって、それは私に人物を撮影した経験がないということなんです。つまり“究極の美”という主題で撮るにしても、人間をどういう風に撮影したら美しく写るのか、まるでわからんということでしょうか」
美奈子は真剣そのものの顔つきで聞き入る。九十万円支払うかどうかの瀬戸際だ。
「で、ある意味今回の仕事は、私の仕事の幅が広がるか、十年一日のごとく風景写真家のままで終わるのか、分かれ道になるんですね。だから撮影の本番に入る前に、予行演習をやっておきたい。本番でまごついたりしないように、モデルを雇って実際に撮影してみる、いろいろ試行錯誤してみよう、というわけです」
安西は灰皿に灰を落としながら続ける。
「ただ、モデルを雇うといっても自腹なんですね。プロのモデルを雇うにはそれなりの報酬を支払わなきゃならない、これがけっこう高額になるんですよ。下手をすると何十万もかかってしまう」
安西は上目遣いで美奈子を眺めた。値踏みをするような視線が、美奈子の美しい容貌を観察したあと、ゆっくり下方に移動してゆき、ブラウスを内側から押し上げている乳房の周辺を数秒間這い回ってから、さらにストレッチパンツのファスナーが中央を走っている下腹部の三角形をさりげなくチラリと舐めた。
安西は再び視線を上げる。
「奥さん、よかったら奥さんがモデルになってくれませんか」
「え、わたしが?」
「そう。奥さんが無料でモデルになってくれれば、こちらが出す予定だったモデル料が浮きます。その分の費用で、別のカメラを中古品か何かで揃えることができる。むろん九十万円にはほど遠いですが、まあ、こちらもその点は譲歩しましょう」
「でもわたしにモデルなんて‥‥」
「できますよ。奥さんほど魅力的な女性は見たことがない。素人モデルはせいぜいギャラが数万円ですが、奥さんはプロ並みのモデル料を貰うだけの資格があると思いますよ」
再度、安西の鋭い視線が美奈子の頭から足先までをじっくりと往復した。
「いかがです?やってみませんか」
褒められれば悪い気がしないのが女性心理だ。美奈子は幾分乗り気になってきたようだが、それでも不安げな顔が晴れたわけではない。
「でも、モデルといっても、どんな写真を撮るんですか?」
「決まってるじゃないですか。テーマが“肉体の神秘――究極の美”ですよ」
安西はニヤリと笑った。
「ヌード――それもオールヌード以外はありえませんね」