奪われるその4
ゆうくん
2005年01月02日
3,635
雑木林の中で監視を続ける安西は、一軒家の浴室の明かりがついたのを認めた。ズームレンズ付きのカメラを覗いてみる。浴室の窓は磨りガラスになっているのだが、黒い人影が映ってなにやら動き回るのが見え、まもなく風呂の給湯器が点火された音も聞こえてきた。直後、黒い影法師は小さくなって消えた。
浴室から出て行ったらしい。
安西はカメラから離れると、再び携帯を取り出し鈴木を呼び出した。
「あ、安西だ。今、浴室の明かりがついた。給湯器も音を立ててる。風呂に入るんだろう。風呂から上がったら後は寝るだけだろうし、今夜はもう外出しそうにないな」
「ひと風呂浴びて、昼間の汗を流してから出かけるつもりかもしれないぜ」
「いや、それはなさそうだ。外出するなら若い女はたいてい手軽にシャワーを浴びる。真夏ともなればいっそうその傾向は強い。女は今、湯船にお湯を溜めてるんだ。しっかりと入浴するつもりだよ」
「‥‥風呂場の中が見えるのか?」
「まさか」
安西は苦笑した。
「磨りガラスの窓はしっかり閉まってるよ」
「じゃあなんでわかる?」
「窓に人影が映ったんだよ。そいつは給湯器の音がするとまもなく浴室から消えた。しかし、浴室が無人になってもずっと給湯器のスイッチは入ったままだ。―――これでわかるだろ?」
鈴木の笑い声が微かに聞こえてくる。
「なるほどな。確かにシャワーじゃない」
「だろ?――ただ、女が外出はしなくても、誰か訪ねてくる可能性はまだある」
「いや、それはないと思う。さっきこの女がスーパーに寄ったとき、店内で誰かと会うかもしれないと思って、俺も車を降りて店内へ入ったんだ。さりげなく何を買ってるのか近づいて探ったんだが、夕食のおかずだったよ。それもどう見ても一人分だ。誰か訪ねてくるならもっとたくさん食材を買うはずだろ?」
「そうか。じゃあ今夜はこれで動きはなさそうだな。――鈴木、お前はもう引き上げていいぞ」
「あんたも引き上げるのか?」
「俺は念のため明かりが消えるまではここにいるよ」
「もし俺が帰ったあとで女が外出したらどうする?」
「雑木林の近くに俺の車が停めてある。俺が尾行する。市道は一本道だからすぐ追いつけるさ」
「わかった。じゃ、悪いが先に帰らせてもらうよ。また明日な」
安西は携帯電話を切った。
浴室の窓に再び影法師が現れた。安西は再びカメラを覗く。今度は消えることもなく盛んに手や頭らしきものが動きまわっている。おそらく湯を浴びて身体でも洗っているのだろう。しばらくはこのままの状態が続きそうだ。
安西はぼんやりとそれを眺めながら、今回の調査の経緯を振り返る。
今回の調査は完全に無駄骨に終わるに違いない。そもそも全てはあの更年期女の妄想から始まっている。
依頼主はあの女――美奈子の義理の母親である菱川敏恵なのだ。
安西は、敏恵が初めて東北信用調査事務所を訪れたときのことを思い出していた。彼はそこの調査員だ。
今から半年前のことである。まだ雄二と美奈子が結婚する前だった。
菱川家はこの地方ではよく知られた旧家であるから、応対は所長が直々に行い、ベテラン調査員として安西も同席した。
敏恵は旧家の奥様然としたところはカケラもなかった。ただひたすら息子を“騙した”東京女の悪口雑言をヒステリックに口から迸らせる。目がつり上がり、唾を飛ばさんばかりの勢いであった。さすがの所長も安西も辟易した。
しばらくは敏恵の口の動くにまかせ、一段落したところで所長が汗を拭き拭き話をまとめる。
「‥‥つまり、奥様は、ご子息の雄二様が結婚したいとおっしゃっているこの女性‥‥美奈子さんですか‥‥が素行が悪いのに違いない、だからわたくしどもに調査せよ、とおっしゃるのですね?」
「そうなんですよ!そもそも東京の短大生なんて身持ちが悪いに決まってます!きっと男が何人もいるに違いないわ!それで財産目当てで雄二を騙したんですよ!雄二は田舎者で世の中の裏を知らないから簡単に引っかかってしまったんです!」
「な、なるほど、なるほど‥‥。で、失礼でございますが、美奈子さんが素行が悪いという具体的な根拠は‥‥?」
「そんなものありません!でも間違いないわ!だからそれをあなた方に調査して貰いたいんです!あの女の正体がわかれば雄二も結婚するのを考え直すでしょう!」
「わ、わかりました。では調査してみましょう。で、料金の件でございますが‥‥」
それから調査員たちを東京に飛ばして美奈子の周辺を洗った。安西も派遣された調査員のうちの一人である。
美奈子の素行の悪さを証明するものは何も出てこなかった。むしろ調べれば調べるほど、美奈子が現代では珍しいほど奥手な少女であったことがわかってきた。
美奈子は女子高生時代は男と交際したことはなかった。当時のクラスメートたちに当たってみても“美奈子には彼氏はいなかった”と異口同音に答えが返ってきた。
それが短大時代になると初めて男ができた。それが雄二だった。
調査の結果を知った敏恵はだいぶ不満そうだったが、数十ページに及ぶ微に入り細をうがった詳細な調査報告書の前に沈黙せざるを得なかった。
やがて雄二と美奈子が結婚したという噂を安西は耳にした。
さしもの敏恵も二人を引き離すことはできなかったわけだ。
ところが先週、不意に敏恵が再び事務所を訪れた。驚いたことに敏恵はなおもあきらめていなかった。
どこで聞きつけたのか、美奈子がパートで働きだしたことを知ったのである。
「おかしいでしょ、生活に困ってないのにわざわざ働くなんて!きっと浮気してるのよ!雄二がアメリカに行ってるもんだから男ができたに違いないんです!」
敏恵は半年前と変わらず尖った言葉を奔流のように吐き出した。そして再び美奈子の素行調査を命じたのである。
そしてその結果、安西がこの雑木林に潜んで監視しているというわけだった。
雑木林の中で安西は考える。
――あのおばさん、ちょっと頭がおかしいんじゃないか‥‥。
――息子かわいさでどうしても嫁さんが許せないらしい。完全に息子を自分の所有物と思っていたところへそれを奪い去った女が現れたのだ。美奈子を浮気性のだらしない女と思い込みたがっているが、事実は違う。美奈子は今時珍しいくらい奥手でまじめな女だ。俺にはわかる。半年前の調査で、美奈子の過去を洗い、彼女がこれまで歩んできた人生をじっくり観察してきたのだ。
――おそらく夫の雄二が美奈子にとって初めての男だったろう。雄二と知り合う以前に性体験を持った気配はない。美奈子は処女を雄二にささげ、その雄二と結婚したのだ。女としてこれほどの幸福はあるまい。そんな境遇の女が浮気などするわけがない。
――この調査は無駄だ。浮気をしていない女の素行調査をしたって何が出てくるというのだ。無駄だ、無駄だ。最初からわかっていたことだが。
安西はとりとめのない想いにひたりながら、雑木林の中で佇んでいた。
「ふー、暑い暑い」
美奈子は、風呂上がりの顔を火照らせながら、脱衣所から廊下へ出てきた。
バスタオル一枚を身体に巻き付けただけの姿である。家の中には誰もいないのだという安心感が生んだ大胆な姿だった。
浴室から出て行ったらしい。
安西はカメラから離れると、再び携帯を取り出し鈴木を呼び出した。
「あ、安西だ。今、浴室の明かりがついた。給湯器も音を立ててる。風呂に入るんだろう。風呂から上がったら後は寝るだけだろうし、今夜はもう外出しそうにないな」
「ひと風呂浴びて、昼間の汗を流してから出かけるつもりかもしれないぜ」
「いや、それはなさそうだ。外出するなら若い女はたいてい手軽にシャワーを浴びる。真夏ともなればいっそうその傾向は強い。女は今、湯船にお湯を溜めてるんだ。しっかりと入浴するつもりだよ」
「‥‥風呂場の中が見えるのか?」
「まさか」
安西は苦笑した。
「磨りガラスの窓はしっかり閉まってるよ」
「じゃあなんでわかる?」
「窓に人影が映ったんだよ。そいつは給湯器の音がするとまもなく浴室から消えた。しかし、浴室が無人になってもずっと給湯器のスイッチは入ったままだ。―――これでわかるだろ?」
鈴木の笑い声が微かに聞こえてくる。
「なるほどな。確かにシャワーじゃない」
「だろ?――ただ、女が外出はしなくても、誰か訪ねてくる可能性はまだある」
「いや、それはないと思う。さっきこの女がスーパーに寄ったとき、店内で誰かと会うかもしれないと思って、俺も車を降りて店内へ入ったんだ。さりげなく何を買ってるのか近づいて探ったんだが、夕食のおかずだったよ。それもどう見ても一人分だ。誰か訪ねてくるならもっとたくさん食材を買うはずだろ?」
「そうか。じゃあ今夜はこれで動きはなさそうだな。――鈴木、お前はもう引き上げていいぞ」
「あんたも引き上げるのか?」
「俺は念のため明かりが消えるまではここにいるよ」
「もし俺が帰ったあとで女が外出したらどうする?」
「雑木林の近くに俺の車が停めてある。俺が尾行する。市道は一本道だからすぐ追いつけるさ」
「わかった。じゃ、悪いが先に帰らせてもらうよ。また明日な」
安西は携帯電話を切った。
浴室の窓に再び影法師が現れた。安西は再びカメラを覗く。今度は消えることもなく盛んに手や頭らしきものが動きまわっている。おそらく湯を浴びて身体でも洗っているのだろう。しばらくはこのままの状態が続きそうだ。
安西はぼんやりとそれを眺めながら、今回の調査の経緯を振り返る。
今回の調査は完全に無駄骨に終わるに違いない。そもそも全てはあの更年期女の妄想から始まっている。
依頼主はあの女――美奈子の義理の母親である菱川敏恵なのだ。
安西は、敏恵が初めて東北信用調査事務所を訪れたときのことを思い出していた。彼はそこの調査員だ。
今から半年前のことである。まだ雄二と美奈子が結婚する前だった。
菱川家はこの地方ではよく知られた旧家であるから、応対は所長が直々に行い、ベテラン調査員として安西も同席した。
敏恵は旧家の奥様然としたところはカケラもなかった。ただひたすら息子を“騙した”東京女の悪口雑言をヒステリックに口から迸らせる。目がつり上がり、唾を飛ばさんばかりの勢いであった。さすがの所長も安西も辟易した。
しばらくは敏恵の口の動くにまかせ、一段落したところで所長が汗を拭き拭き話をまとめる。
「‥‥つまり、奥様は、ご子息の雄二様が結婚したいとおっしゃっているこの女性‥‥美奈子さんですか‥‥が素行が悪いのに違いない、だからわたくしどもに調査せよ、とおっしゃるのですね?」
「そうなんですよ!そもそも東京の短大生なんて身持ちが悪いに決まってます!きっと男が何人もいるに違いないわ!それで財産目当てで雄二を騙したんですよ!雄二は田舎者で世の中の裏を知らないから簡単に引っかかってしまったんです!」
「な、なるほど、なるほど‥‥。で、失礼でございますが、美奈子さんが素行が悪いという具体的な根拠は‥‥?」
「そんなものありません!でも間違いないわ!だからそれをあなた方に調査して貰いたいんです!あの女の正体がわかれば雄二も結婚するのを考え直すでしょう!」
「わ、わかりました。では調査してみましょう。で、料金の件でございますが‥‥」
それから調査員たちを東京に飛ばして美奈子の周辺を洗った。安西も派遣された調査員のうちの一人である。
美奈子の素行の悪さを証明するものは何も出てこなかった。むしろ調べれば調べるほど、美奈子が現代では珍しいほど奥手な少女であったことがわかってきた。
美奈子は女子高生時代は男と交際したことはなかった。当時のクラスメートたちに当たってみても“美奈子には彼氏はいなかった”と異口同音に答えが返ってきた。
それが短大時代になると初めて男ができた。それが雄二だった。
調査の結果を知った敏恵はだいぶ不満そうだったが、数十ページに及ぶ微に入り細をうがった詳細な調査報告書の前に沈黙せざるを得なかった。
やがて雄二と美奈子が結婚したという噂を安西は耳にした。
さしもの敏恵も二人を引き離すことはできなかったわけだ。
ところが先週、不意に敏恵が再び事務所を訪れた。驚いたことに敏恵はなおもあきらめていなかった。
どこで聞きつけたのか、美奈子がパートで働きだしたことを知ったのである。
「おかしいでしょ、生活に困ってないのにわざわざ働くなんて!きっと浮気してるのよ!雄二がアメリカに行ってるもんだから男ができたに違いないんです!」
敏恵は半年前と変わらず尖った言葉を奔流のように吐き出した。そして再び美奈子の素行調査を命じたのである。
そしてその結果、安西がこの雑木林に潜んで監視しているというわけだった。
雑木林の中で安西は考える。
――あのおばさん、ちょっと頭がおかしいんじゃないか‥‥。
――息子かわいさでどうしても嫁さんが許せないらしい。完全に息子を自分の所有物と思っていたところへそれを奪い去った女が現れたのだ。美奈子を浮気性のだらしない女と思い込みたがっているが、事実は違う。美奈子は今時珍しいくらい奥手でまじめな女だ。俺にはわかる。半年前の調査で、美奈子の過去を洗い、彼女がこれまで歩んできた人生をじっくり観察してきたのだ。
――おそらく夫の雄二が美奈子にとって初めての男だったろう。雄二と知り合う以前に性体験を持った気配はない。美奈子は処女を雄二にささげ、その雄二と結婚したのだ。女としてこれほどの幸福はあるまい。そんな境遇の女が浮気などするわけがない。
――この調査は無駄だ。浮気をしていない女の素行調査をしたって何が出てくるというのだ。無駄だ、無駄だ。最初からわかっていたことだが。
安西はとりとめのない想いにひたりながら、雑木林の中で佇んでいた。
「ふー、暑い暑い」
美奈子は、風呂上がりの顔を火照らせながら、脱衣所から廊下へ出てきた。
バスタオル一枚を身体に巻き付けただけの姿である。家の中には誰もいないのだという安心感が生んだ大胆な姿だった。